あ〜もぉ笑い過ぎて死にそうです。
コンテンツの創作者やその代理者は,いまだに暗号化によって収入が確保できると思っている。ユーザーには2種類しかいなくって,あなたのお母さんのようなどんな暗号でも有効な人と,あなたの甥っ子のようなどんな暗号技術も意味がない人だ。なんでどんな暗号も意味がなくなるかというと,暗号がかけられた音楽は,聴かれるときには暗号が解かれているからだ。そして音楽もTVも,すべてのコンテンツは非競争的,非排除的になるしかない。
「このエッセイは盗用自由−その1」から以下引用。「非競争的」とは,誰もが利用できるもの,利用を争う必要がないものだ。1台の自動車は,ある人が利用するには他の人は利用できないように競争が必要だが,灯台を利用しようとしたとき,みるのを争う必要がない「非競争的」なものだ。「非排除的」とは,みんなで利用できるもの,利用を誰かに独占させる必要がないものだ。映画は,劇場内にいる人しかみることができないように他の人の排除が必要だが,灯台は,誰でもみることを阻止されない「非排除的」なものだ。そして,情報とは,非競争的・非排除的なものである。
暗号は,もしそれが完璧であるなら競争的であり,排除的なものになるだろう。だが,それはない。どこにもない。いっさいない。ネットワークの情報は,非競争的・非排除的なもの以外には存在しない。なぜか,そも,情報とはそういうものだからとしか云えない。音楽も,動画も,テキストも,そも,非競争的・非排除的であり,100億ドルの暗号をかけようと,1兆円の暗号をかけようと,非競争的・非排除的なものにかわりはない。明日には,暗号のないプレーンなファイルが共有される。無駄なことに毎日を過ごす人間の愚かさを,私たちは高みの見物をして笑い飛ばそう。まずは今,もっとも愚かな者たちである,日本と米国の音楽産業を,死ぬほど笑ってあげよう。これ以上の喜劇はないよ,まったく。
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